サッカー部福音書より

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サッカー部、と書くだけで身が引き締まる思いがする。
なにせサッカー部ときたら、華々しく光り輝いている。クラスの中心にいる。
「俺にないものリスト」の内容を片端から所持している。
 
動物が火を恐れるように、我々はサッカー部を畏れる。
今までずっと、サッカー部とは距離を置き、あたかも別世界の住民であるように振る舞ってきた。
それももう、やめてしまおう。


我々はそろそろ、真剣にサッカー部と向き合うべきだ。
そう思った俺は考え、悩み、そして答えに辿りついた。
 
 


みんなサッカー部になりたいのだ。
 


 
例えば電車の中を想像しよう。
お前は一人で座席に座っている。
ある駅で、5人ほどの高校生が乗り込んできた。        時間帯的に部活終わりだろうか。
エナメル製のカバンには大きく「〇〇高校 サッカー部」と書かれていた。
 
当然、騒ぐ。最近できた彼女について、流行りのスマホゲームについて、迫りくるテストについて。サッカー部だから話題は尽きない。


お前はそれを不愉快に感じる。電車の中では静かに、周りの事を考えて、人に迷惑をかけるな……と正論を振りかざしたくなる。
 
これだ。サッカー部と俺の関係は、いつまでたってもこうなのだ。


サッカー部は楽しむ。俺はその余波を食らう。そして怒り、ルールとかマナーについて言いたくなる。これがもうダメなのだ。非サッカー的なふるまいだ。
 
大声で話すとか、騒ぐとか、さらには年功序列的な考えまで、我々はいわゆる「体育会系」として括りがちだ。そういうのやめろとネットでギャアギャア言う。


俺も今まではそうだった。過去形だ。なぜ過去形になったか?「体育会系」の言動は人間の本性そのものだと気づいたからだ。
 粗野で粗暴なサッカー部は、薄皮を剥いだ人間の本性そのものだった。
 
例えば以前、俺はあるネトゲをしていた。
ネトゲは得てして「素材集めのための素材集め」に帰結しがちで、俺がやっていたゲームも例外ではなかった。俺がそのとき探していたのはアイテムドロップ率を上げるアイテムで、入手には膨大な時間と手間がかかるものだった。
同じ敵を延々と倒し続け、やっとの思いで手に入れた直後、運営からお知らせが出た。
 
「ドロップ率上昇アイテムを手に入りやすくします」
 
!!?!!??!???!?!?!?!!?????!
俺は怒った。ツイッターで怒れる同志の発言を漁った。掲示板に書き込んだ。
今、冷静になって振り返ると、怒りの原因は2つあった。
1つは時間を無駄にしたこと。ネトゲ自体が無駄だと言われればそれまでだが、俺が使った時間はなんだったんだ、と叫んだ。
そしてもう1つが「俺はこんなに苦労したのに!」という恨みだった。
 
この心理が運動部の「しごき」と全く変わらないことに、俺は気づいてしまった。
「俺だってやったんだから、お前らもやれ」だ。あれだけ無様だと罵った心理と、知らず知らずのうちに合流していた。
 
すると様々な事象がサッカー部と繋がり、はじけた。
 
大人数になると俺だって電車で騒ぐ。サッカー部が電車でサッカー部するのはサッカー部だからじゃなく、みんなで集まって楽しくなってるからだ。

 

サッカー部が楽しむことが周囲の不快に繋がっていると仮定しよう。その時見えるのは「周囲の快適をサッカー部が搾取する」という捕食・被捕食の構造である。捕食を免れるには、自ら捕食する側に回るしかない。即ちサッカー部になればよい。

 

当然これは容易ではない。サッカー部のサッカー性を担保しているのは、彼らが持つ本質的「陽」のイメージに他ならない。

 

結局、俺はサッカー部だから憎いのではない。サッカー部に混じれないから憎いのだ。

 

世界は物質界・霊界・そしてサッカー界によって構成される。サッカー部はそうして物質界に顕れたサッカーの使徒であり、我々を根源的サッカーへ導くための存在である。

 

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聖母マリアをパス練に誘う大天使の図

 

そもそも、こうしてウジウジと書き連ねること自体が非サッカー的かもしれない。思索はサッカーでない。サッカーとは行動だ。百の対話は一回のワンオンワン(互いの内なるサッカーをぶつけ合う精神的儀式)に劣る。


サッカー部になれない我々は、少しずつサッカー的行為を重ねるしかない。そうしてサッカー経験値がうず高く積まれた時、はじめて彼らを理解できる。

 

とりあえず俺は物置に向かった。
埃をかぶった丸ころを取り出し、それを「友達」と呼ぶところから始めよう。

 

サッカー、やろうぜ。